稲積水中鍾乳洞は、日本名水百選、白山川と共に自然と共存し、維持、保全に努めています。
An underwater stalactite cave of inazumi 
HOME  ご注意 会社概要 お問い合わせ 
稲積の四季の見所をご紹介
  稲積水中鍾乳洞の売店のご紹介 稲積水中鍾乳洞に寄せられるよくある質問の紹介 稲積水中鍾乳洞への交通アクセスの紹介
 トップページ > 四季の見所
    稲積の四季の見所をご紹介
   
 
本ページは、1998年10月10日、大分地質学会によって主催された「西南日本石灰岩についてのシソポジウムー主と して大分県のものを中心に一」(於。 津久見市民会館)において、藤井氏が行った講演の内容に若干の補足を行い、 まとめたものである。とくに稲積鍾乳洞については、昭和52年秋の同鍾乳洞の観光化に先立って行われた学術調査の成果 (西田氏ほか、1977:太田ほか、1978) を主体に、翌日の同鍾乳洞での巡検時の観察など、その後に得られた若干の新しいデータや見解を加え、修正した発達史を提案したものを記載させていただいたものです。
 
参考:大分県稲積・風連・小半鍾乳洞とその水文地質学的位置付け
〜とくに稲積の発達史について
北九州市立自然史博物館 藤井 厚志
佐賀大学文化教育学部 西田 民雄
   
  会社概要
   
 
 も く じ
 
   1)概説
   2)水中洞の特徴
   3)新生洞の地下水
   4)新生洞の二次生成物の特徴
   5)稲積鍾乳洞の発達史
   
 
1)概説
 
本地域の地質の詳細については既に西田ほか(1977:1982)、太田ほか (1978)、酒井ほか (1993) に詳しいのでここでは省略するが、 この石灰洞は秩父帯のジュラ系メランジュ相 (奥川内層)中の石灰岩体(ベルム系稲積山石灰岩層)に形成されている。稲積山の南側の非石灰岩地帯を迂回する中津無礼川の短絡路として生じた、上流の三重町白谷から中津留を結ぶ長さ約5qの直線的なカルスト地下水系の一部である (第1図)。
   
 
   
 

また、阿蘇4火砕流堆積物(7〜9万年前:町田・新井,1992)による中津無礼川の埋積に由来する特異な発達史をもつ鍾乳洞であることも既に明らかになっている(西田ほか、1977:太田ほか,1978)。中津無礼川は傾山北西麓の火成岩地帯を離れて白谷の小盆地に入ると、平時にはすぐに河床の巨礫堆積物中に失水し、その水は稲積山を構成する石灰岩中を流下して本鍾乳洞へと流出する.
かつて白谷で投入された蛍光染料 (ウラニン) は5日後に稲積鍾乳洞に流出した(太田ほか、
1982b)。本地下水系・白谷において河床下に潜在する石灰岩中に入って約100m余りの高距を
垂直に流下し、地下水面に達した後に洞窟系内を中津留方面に流れ下っているものと推測される。 中津無礼川は30年程前までは夏季にも盆地中程の大白谷生活改善センタ一あたりまで流水があり、子供たちの水泳もできたらしく、失水区域が拡大しているようである。上流での広域の植林やニヵ所の堰堤の築造が影響しているのではないかという住民の話がある。
稲積鍾乳洞は昭和52年秋に観光洞としてオープンし、その後は稲積水中鍾乳洞と呼ばれている。人工のトンネルによっていくつかの自然の空洞が連結され、総延長約1qを有する。水中洞と呼ばれる区域と新生洞と呼ばれる区域との大きく2つに分けられる(第2図)。水中洞はいくつかの小規模な空洞を長い人工トンネルで結んだものであるが、人工的な排水路の掘削によって現在の地下水位はかつての高水位(水田面のレベル:標高186〜187m)から約5m程低下している。観光路に沿った幾つかの景勝地は本来は水面下にあった所である。洞窟の主体は今なお水面下に没しており、スキューバによる探検で、現水面下10〜20mないしはそれ以上の深さに、長さ500m以上にわたってかなりの規模の空洞が伸びていることが確認されている。しかし、開発が行われた区間の下部にあった水面下の空洞は、かなりの部分がトンネル掘削時の捨て石によって埋まっている。
新生洞では若干の人工的な通路の拡大掘削も行われているが、洞窟の主体は大半が自然のものである。水中洞と違ってもともと全体が地下水位付近から上にあった。平時には1〜5m+のプールが所々にあったが、雨時には水位が上り、現在の観光路のレベルは全体に湛水した。また、開発時には水中洞に近い所で水面下に伸びたphreatic tubeによって水中洞と一25mで連絡し、ここから地下水が新生洞へと流れ込んでいた。
洞窟の形態や二次生成物、溶食形態等についての記載は従前の報告(前掲の他に太田ほか、1982a:藤井・松井、1982)に既に詳しく述べられているので、ここではその後に得た幾つかのデータに関して以下に簡略に紹介する。

   
 
ページトップ
   
 
2)水中洞の特徴
 
水中洞の洞口は、観光洞の入口となっている所の脇(第2図の地点A)である。稲積山の東山麓の水田脇に開口し、元来は奥行数メートルで水没していた。雨時にはそこから大量の地下水が溢流した。平時には水面が下がっていて洞口から地下水が流出することはなく、加えて水中洞の地下水が新生洞へと流れ込んでいたことが認められている。現在では深く掘削された排水路によって常時3万〜4万m3/dayの地下水が水中洞から中津無礼川へと直接に流出し、水中洞から新生洞への流れはなくなった。
   
 
   
 

開発前に行われたスキューバによる探検では、水面下に大ぎな空洞が広がる一方、水面上にはごく小さな空間しか確認されなかった。藤井は開発後に2度、観光洞の最奥部にある“示現の淵”からさらに奥ヘスキューバによる探検に同行したことがあるが、1ヵ所のごく小さな空間を除いて全体が水面下にある。深さ10m前後までかなりの鍾乳石や石筍、フロ一ストーン類が見られる。それらは若干の溶食を被っているが、意外に原型を保っている。これらの鍾乳石類は、観光路に沿った景勝地においても同じように観察することができる。その溶け方から、結晶質の鍾乳石類よりも微晶質の石灰岩の方が、溶食に対 して抵抗性が小さいことがよく分かる。壁面を覆った装飾物と石灰岩母岩との間がえぐられるように溶食を受け、フロ一ス トーンが薄皮のように残っている。

   
 
   
 

第3図に示すように、“示現の淵”から下方へ円筒状の通路を下降し、ー16mに達するとそこから奥へ120m地点までは幅5〜10mの明らかに峡谷型の空洞で、両岸の壁はほぼ垂直に切り立っている。一部に小さな天然橋がある。洞床の一部には数ヵ所に砂の堆積があり、波長10p程度のリップルマークが見られる。恐らく古い時代のものであろう。洞床の一部は石灰岩や鍾乳石の角礫で被われた落盤性のものである。粘土質の堆積層はほとんど見られない。
120m地点から奥へは探検が不十分で、この峡谷型の通路がどう続いているのか、まだ分かっていないが、天井近くの浅所から続くphreatic tunne1(飽和水帯型の管路状の通路)はさらに150m以上探検が進められている。 150〜180m(?)の付近は、部分的に小規模な峡谷状(?)の通路からなり、黒色の泥質岩薄層が互層状に夾在し、 垂直に近い傾斜角をもった石灰岩層が見られたが、洞窟潜水という八一ドな状況のため、観察は十分でない。このあたりには鍾乳石類はほとんど見られない。開発時に示された佐伯ダイビングクラブによる水中洞の縦断面図(西田ほか、1977:太田ほか、1978)と今回掲げた西日本洞窟潜水研究会による図面とは、約100m地点から奥で形態に違いが見られるが、現状では探検上の困難さからいってコメントは難しい。
このphreatic tunne1には前者が敷設したガイドラインも通っている。

   
 
ページトップ
   
 
3)新生洞の地下水
 
開発前には“黄金柱”の北にあった小プール(第2図の地点B)で水中洞から地下水が湧き上り、落差約2mの小さな滝をつくって新生洞へと流れ落ちていた。すなわち、新生洞の地下水位は平時には水中洞よりも低い高さにあった。このことから、新生洞と水中洞とは本来洞窟系としてのつながりのほとんどない独立した系として(恐らく時代を異にして)形成されたものであると考えられ、阿蘇4以降の水没期につながりが生じたものと推測される。なお、開発時の報文(前掲)中で、新生洞奥部の1地点のレベルとして176.7mと示されているが、開発後の水中洞の水位(180.7m〉より4m低く、中津無礼川のレベルよりもさらに低くなり、測量の間違いとみられる。
興味深いことに、新生洞全体が湛水した雨時の高水位時に、“名残りの池”の少し北(第2図の地点C)で投入された蛍光染料(ウラニン)がしばらくの後に中津無礼川の河床にあった大ぎな湧水(第2図の地点D)に流出したことが住民によって確認されている。この湧水は洗い物等の用水の場として利用されていたが、水中洞からの現排水路が中津無礼川に出合う付近の河床中央にあり、溶結凝灰岩中から湧いていた。開発時の報文では、このトレーサー実験の結果は「新生洞から水田面下の河成礫層中を流下して、中津無礼川左岸へ流出した」と記述されたが、これは間違いである。
首藤金満、下田幸生両氏によると、この湧水には現在水中洞から流出している流量に匹敵するほどのものが湧き出ていたらしい、現在ではなくなっている。恐らく、洞窟中からの地下水が阿蘇4火砕流堆積物下部の非溶結部を流れ、中津無礼川中央部で溶結凝灰岩の開いた柱状節理あるいは二次噴気孔に由来する孔隙を湧き上っていたものであろう。実際、火砕流堆積物の非溶結部にパイピングによると思われる小さなトンネルが穿たれていることは時に目にするところで、藤井はかつて太田正道氏とともに宮崎県五ケ瀬町での養魚用水源の開発に際し、阿蘇4溶結凝灰岩基底の非溶結部(軽石層〜“灰石層”)に直径 50〜100pのこの種のトンネルが複雑に発達しつつあるのを調査したことがある。
   
 
ページトップ
   
 
4)新生洞の二次生成物の特徴
 
新生洞には多量の鍾乳石類の発達があるが、水中洞と違って全体に激しい溶食を被っている。溶食作用は石灰岩母岩にも強く働いている。この激しい溶食作用は“黄金柱”や“瑞宝厳”、“天のかけ橋”などの巨大なフロ一ストーン塊の表面に、 年輪のような成長縞が複雑に現れていることから明瞭に知ることができる。この溶食作用は循環水帯での重力水によるものではなく、水面下での作用であることは溶食の形態から明らかである。溶食作用を受けたこれらの古い時代の生成物のほかに、最近にできた大小の鍾乳石類も新生洞の様々なレベル(観光路のレベルにまで)で見られる。
太田ほか(1982a)はこの溶食作用が開発後の地下水位(180.7m)を基準として上方11mまでと述べた。しかし、野外での阿蘇4火砕流堆積物の堆積レベルを考慮すれば、かつてはさらに高位のレベルまで水没し、より高所まで溶食作用を受けているとみなす方が妥当である。中律無礼川を距てた稲積鍾乳洞対岸の西向ぎ斜面には標高240〜250mに狭い緩傾斜がみられる。この斜面上に弱溶結〜非溶結・未固結の阿蘇4火砕流堆積物が薄く残っていることから考えると、阿蘇4噴火時の火砕流は標高300mに近く谷埋めの形態で堆積したと想像される。中津無礼川沿いにはこの高さに対比できる局地的な緩傾斜面があちこちに見られる。
残念ながら洞くつ内の高所であるため、11m以高にも溶食作用が働いているかどうか確認の調査が難しい。11mというレベルは、谷を埋めた火砕流堆積物の侵食が進むにつれ、段階的に低下した地下水位の一つのステージを示したものと理解すべきではなかろうか。例えば、本洞窟の南方約400m、神社のある比高約10mの溶結凝灰岩の小丘面の時代が考えられる。
   
 
ページトップ
   
 
5)稲積鍾乳洞の発達史
 
前述の二、三の新しい観察結果とともに、一部にはかなりの想像を加えて第4図に稲積鍾乳洞の発達史を模式的に描いた。
(1)10万年以上前
新生洞、水中洞の原形が発達した。発達レベルの違いから、新生洞が水中洞よりも一時代古い歴史を有するものと考えられ る。水中洞は新生洞に比べて直線的なパターンをもって伸び、峡谷型の特徴もより明瞭であることから、水中洞の発達の時代になって中津無礼川の短絡路としての地下川系の性格が完成したものと推定される。絶対年代を知るために、古い鍾乳石類の年代測定が今後の課題である。
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 

(2)阿蘇4火砕流堆積物による水没の時代
新生洞、水中洞ともに阿蘇4火砕流堆積物による中津無礼川の大規模な埋積(7〜9万年前)によって完全に水没した。理由はよく分からないけれども、水中洞では地下水の循環がほとんど停滞した。一方新生洞においては激しい流れが生じ、二次生成物や石灰岩が激しく溶食されたと考えられる。
水中洞は全体に溶結凝灰岩が生じたレベル以下の深所にある一方、新生洞はその上部が非溶結相のレベルに近いために、前者は洞窟からの地下水の流出がほぼ完全に封をされ、後者では地下水の流出口がすみやかに形成されたと推測することも一面では可能であろう。このように仮定すれば、水中洞では二次生成物の溶食の度合いが小さく、かつ粘土質の堆積物が少ないことも良く理由づけることができる。また、阿蘇4噴火直後の莫大量の火砕流堆積物による地下水のph低下が、溶食作用に大きく寄与したということもあったかも知れない。
さらに、火砕流堆積物のある程度の侵食が進み、下流からの中津無礼川の峡谷化(頭部侵食)が進んでくる段階に入ると、石灰岩体(洞窟)から間隙水圧の低下した火砕流堆積物に向けて新しい排水系の形成が始まったと想像される。これらの一つが新生支洞へと成長し、かつ中津無礼川の河床にあった湧水へとつながる未知の排水路の母体にもなったと推測すれば考えよい。
新生支洞では節理に沿った直径1m足らずの円筒状の溶食性の穴が数本高角度で上向きに伸びている(藤井、1977、図版7)。この穴は頂部で不意に終点となり、いわゆるblind passageをつくっている特徴的なものである。その形成は、新生支洞が地下水で飽和していた時の動水勾配に応じて、節理を介して石灰岩体内から支洞内へ引き込まれた水と新生支洞内の水との混合溶食作用*に起因する可能性を考えることができる。
 * 二酸化炭素濃度の異なる二つの炭酸カルシウム飽和水が混合することによって、新たな水は不飽和になり溶食力が生じる作用。二酸化炭素濃度と炭酸カルシウム溶解度が非線形の関係にあるために起こる現象。
(3)開発前のごく最近の地質時代
前期:新生洞の上部は完全に排水され、溶食を被った古い二次生成物に重なって新期の生成物が形成されるようになった。水中洞と新生洞の水頭差によって、両洞のつながりがこの頃に完成したのであろう。地下水は水中洞から新生洞へと流れ、さらに新生支洞を経て排出された。それまでほとんど停滞していた水中洞の地下水の流れが激しくなり、水中に沈んだ二次生成物等の溶食が始まった。新期の二次生成物の年代測定 が今後必要である。
後期:中津無礼川による現水田面レベル(標高186〜187m)での山麓部の侵食によって水中洞や新生支洞の現洞口が開口した。水中洞は洞口の開口によって地下水の流れが一段と激しくなった。
(4)現在(開発直前)
現水田面レベルの溶結凝灰岩侵食面の段丘化が進み、降雨時における水中洞の洞口からの澄流を除いては平時には地下水は水中洞から新生洞へ流れ、阿蘇4火砕流堆積物の下底を通って中津無礼川の湧水へ湧き上がり、排出されるようになった。
新生支洞の洞口は小さなポノールとして逆に機能するようになった。それに伴って、新生洞へは外部から砂や粘土の流れ込みが起こった。今後の課題として溶結凝灰岩の侵食面を被うベニヤ礫層の年代預淀が望まれる。
(5)現在(開発後)
水中洞から中津無礼川への人工排水路がつくられた結果、水中洞の水位力祇下した。水中洞から新生洞への地下水の流れ込みがなくなるとともに、中津無礼川河床の湧水が消滅した。
(藤井・西田)

   
 
ページトップ
   
 稲積水中鍾乳洞 〒879-7263 大分県豊後大野市三重町大字中津留300番地 Phone.0974-26-2468
  入場料/大人 1,200円 大学生 1,000円 中高生 800円 小学生 600円
稲積水中鍾乳洞 日本名水百選 白山川 豊後大野市 周辺情報 施設紹介 四季の見所 売店紹介 よくある質問 交通アクセス
Copyright 2005 kaisetsusyo.,lcd All rights reserved. 

稲積水中鍾乳洞の洞内図と見所のご紹介

日本百選 白山川のご紹介

豊後大野市のご紹介

稲積水中鍾乳洞の周辺情報のご案内

稲積水中鍾乳洞の施設のご案内

豊後大野市(稲積水中鍾乳洞)の四季のご案内