また、阿蘇4火砕流堆積物(7〜9万年前:町田・新井,1992)による中津無礼川の埋積に由来する特異な発達史をもつ鍾乳洞であることも既に明らかになっている(西田ほか、1977:太田ほか,1978)。中津無礼川は傾山北西麓の火成岩地帯を離れて白谷の小盆地に入ると、平時にはすぐに河床の巨礫堆積物中に失水し、その水は稲積山を構成する石灰岩中を流下して本鍾乳洞へと流出する.
かつて白谷で投入された蛍光染料 (ウラニン) は5日後に稲積鍾乳洞に流出した(太田ほか、
1982b)。本地下水系・白谷において河床下に潜在する石灰岩中に入って約100m余りの高距を
垂直に流下し、地下水面に達した後に洞窟系内を中津留方面に流れ下っているものと推測される。
中津無礼川は30年程前までは夏季にも盆地中程の大白谷生活改善センタ一あたりまで流水があり、子供たちの水泳もできたらしく、失水区域が拡大しているようである。上流での広域の植林やニヵ所の堰堤の築造が影響しているのではないかという住民の話がある。
稲積鍾乳洞は昭和52年秋に観光洞としてオープンし、その後は稲積水中鍾乳洞と呼ばれている。人工のトンネルによっていくつかの自然の空洞が連結され、総延長約1qを有する。水中洞と呼ばれる区域と新生洞と呼ばれる区域との大きく2つに分けられる(第2図)。水中洞はいくつかの小規模な空洞を長い人工トンネルで結んだものであるが、人工的な排水路の掘削によって現在の地下水位はかつての高水位(水田面のレベル:標高186〜187m)から約5m程低下している。観光路に沿った幾つかの景勝地は本来は水面下にあった所である。洞窟の主体は今なお水面下に没しており、スキューバによる探検で、現水面下10〜20mないしはそれ以上の深さに、長さ500m以上にわたってかなりの規模の空洞が伸びていることが確認されている。しかし、開発が行われた区間の下部にあった水面下の空洞は、かなりの部分がトンネル掘削時の捨て石によって埋まっている。
新生洞では若干の人工的な通路の拡大掘削も行われているが、洞窟の主体は大半が自然のものである。水中洞と違ってもともと全体が地下水位付近から上にあった。平時には1〜5m+のプールが所々にあったが、雨時には水位が上り、現在の観光路のレベルは全体に湛水した。また、開発時には水中洞に近い所で水面下に伸びたphreatic tubeによって水中洞と一25mで連絡し、ここから地下水が新生洞へと流れ込んでいた。
洞窟の形態や二次生成物、溶食形態等についての記載は従前の報告(前掲の他に太田ほか、1982a:藤井・松井、1982)に既に詳しく述べられているので、ここではその後に得た幾つかのデータに関して以下に簡略に紹介する。
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